ネット上の「『全然+肯定は誤用』は迷信」という記事で見落とされていること

以前「普通に」という表現について記事を書いたことがあるんですが、こういったいわゆる「若者言葉」に限らず、言葉の乱れ、誤用についての話題はネット上でも数多く見かけます。
「全然」という言葉も時々取り上げられている言葉のひとつのようで、検索してみると、この言葉について解説しているサイトやブログがたくさんヒットします。

ブログや教養・雑学系サイトがたくさんヒットしたのは予想通りですが、それだけでなく国語学者と思われる人たちによる「研究論文」が数多く存在することが分かりました。
誤用が話題になる他の言葉についてもいくつか検索して見ましたが、この言葉ほど注目されている言葉はないと思います。

ヒットした記事を見ていくと、どうも「迷信」という言葉とセットで取り上げている記事が多いようです。
「全然 迷信」で再度検索すると、まず目に入るのは『NIKKEI STYLE ライフコラム ことばオンライン』に掲載されている『なぜ広まった? 「『全然いい』は誤用」という迷信』という記事。

このNIKKEI STYLEの記事(以下、NIKKEI)は、国立国語研究所の新野直哉(ニイノナオヤ)准教授の率いる研究班が2011年10月に行った「全然の迷信」についての研究発表を受けて書かれたもののようです。
新野氏はこの8ヵ月ほど前に『現代日本語における進行中の変化 (2011/2/14 ひつじ書房)』(以下、新野本)を発行しており、これに「“全然”についての迷信」に関する記述がありそうだという情報を見かけました。
その後、違う見解の論文等が発表された様子はなさそうなので、新野本と研究発表は同じ見解に基づいた内容と見ていいでしょう。

それなら当然NIKKEIの内容とも関連があり、記事を書くにあたって参考になるかもと期待して、多少の紆余曲折の末に新野本を購入。
そして約100ページにわたり「全然」についてがっつり書かれた論考を読んでみたら、表題の「見落とし」を発見してしまったというわけです。

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新野氏は「『全然いいは誤用』は迷信だ」とは言っていない

NIKKEIにはこう書かれています。

一般に「全然は本来否定を伴うべき副詞である」という言語規範意識がありますが、研究者の間ではこれが国語史上の“迷信”であることは広く知られている事実です。

一方、新野氏は「全然+肯定」についての論考が掲載されている文献を列挙した上で次のように述べています。

そしてこれらの先行文献によって、「“全然”は現在では「全然ない」のように否定を伴うのが正しい用法と考えられているが、明治から昭和戦前にかけては否定をも肯定をも伴って用いられていた」ということは、すでに当時、国語学研究者にとっては半ば常識となっていたといえよう。

「現在では否定を伴うのが正しい用法だと考えられている」という記述があり、NIKKEIとは逆のことを言っていることになります。

先に書いたように、研究班の発表と新野本、およびNIKKEIの内容は同じ見解に基づいていると考えられます。
それなのになぜ新野氏側の言っていることとNIKKEIは、こうも正反対ともいえる内容になったのでしょう。

ポイントは「本来」の用法

NIKKEIにはこう書かれています。

一般に「全然は本来否定を伴うべき副詞である」という言語規範意識がありますが、研究者の間ではこれが国語史上の“迷信”であることは広く知られている事実です。

そしてこちらは、新野氏が発表した“全然”に関する別の論文の一節。

「“全然”は本来否定を伴う副詞であるという言語規範意識は、国語史上の客観的事実と反しており、「迷信」と呼ぶべきものであることは、現在では相当程度知られている。

「なんだ同じ内容じゃないか」と言われそうですね。
確かに一見同じことが書かれているようですが、このふたつはおそらく意味が違います。

ポイントとなるのは「本来」という言葉の使い方です。
これが当記事のタイトルにある「見落とされていること」と考えています。

「本来」を辞書で引くと意味が二通り記載されています。

ひとつは、
「もともとは」「はじめから」「元来」という時間的な意味。
もうひとつは、
「当然そうあるべきこと」「正しくは」といった意味。

NIKKEIのほうは、記事のタイトルが「『全然いい』は誤用という迷信」であることと、
記事後半の、ある新聞に載った投稿内容のエピソードから考えて、「全然」の用法の「正誤」を中心に書かれているとみるのが妥当でしょう。
つまり「本来」を「正しくは」の意味だと解釈して、

「全然は、否定を伴って使われるのが正しい」という規範意識がありますが、これは迷信です。

と言っていると考えられます。

一方、新野本には、

(全然+肯定の例を挙げて)それらは現在の用法としては確かに規範には合わないが、「本来の用法ではない」というのは明らかに国語史的事実に反する。そうであるがゆえに、「迷信」と呼ばざるを得ないのである。

と書かれています。
この「本来の」をNIKKEIと同じように「正しくは」の意味に置き換えてみると、

現在の用法としては確かに間違いだが「正しい用法ではない」というのは事実に反する。

という文章になりますが、これでは文脈がおかしいですね。矛盾が生じています。
ここは時間的な意味として解釈し、

現在の用法としては規範に合わないが、「もともとの用法ではない」というのは事実に反する。

と読むのが自然でしょう。

p.172には

研究の進展の成果をいかに社会に浸透させ、「“全然”は否定と呼応する副詞である」というのは今日の規範としては確かに存在するものの、それが「本来の用法」であるというのは「迷信」であることを周知させていくか、が研究者に突きつけられた重要かつ非常に困難な課題といえよう。

とあり、これも「本来の用法」を「正しい用法」に置き換えて読むと文脈が通らず、「もともとの」「当初の」といった時間的意味の言葉と解釈すれば自然な文になります。

また、新野本の中でこの「全然」に関する章は約100ページあり、意味・用法を細かく分類して用例も数多く掲載していますが、僕が読んだ限りでは、用法の正誤についての言及は引用部分にしか見当たりません。
新野氏自身が記述した部分では「どの用法がどの時期に見られるか」と徹頭徹尾、時期・時系列を論点にしています。

さらに極めつけとも言える発言として、

筆者は「「“全然”+肯定形」は日本語として正しい用法である」と述べたことは一度もない。あくまで「“全然”が否定形を伴うのが本来の用法だ」というのは国語史上の事実に反する、ということを主張しているのである。

とも言っています。(“本来の”の部分は原書では傍点)

だからといって「全然+肯定形が間違っている」と言っているのでもありません。そもそも正しいか間違っているかの判断を示さないというのが研究者のスタンスなのです。

これらの点から、新野氏のほうは「本来の」を時間的な意味で使用しているのは明白と言えます。

ややこしくなってきましたね。
書いている僕もそう思いますけど、これでも新野本よりは読みやすく書いてるつもりですw

要するにどういうことかというと、
新野氏の研究班が述べた

「“全然”は本来否定を伴う副詞であるというのは迷信である」

というのは、

「『“全然”は、もともと否定を伴う副詞である』というのは迷信である」という意味。

長ったらしく書くと、

「“全然”は否定を伴うべきだというのは(2011年時点では)間違いではないが、そういう考え方が登場したのは昭和20年代後半である。
その前は全然+肯定も同じくらい使われていたのだから、「必ず否定を伴って使うのが、“全然”という言葉が使われ始めた頃からの“もともとの用法”だ」というのは間違いであり、「迷信」と言わざるを得ない」

という意味だった。(「20年代後半」という記述はNIKKEIから借用)
しかしNIKKEI側は「本来の」の意味を取り違えて、

「『“全然”は、否定を伴って使うのが正しい』というのは迷信である」

という風に解釈して記事にしたのではないか。

新野本に、田中一彦という言語学者の「「全然おいしいよ」は問題な日本語か」(2005)からの引用があります。

新野にいたっては「“全然”が否定形と共起するのが本来の用法だ」というのは「迷信」であると結論づけている。本稿では、この「“全然”+肯定形」は日本語として正しい用法であるとする最近の考え方を再検討してみたい。

後半の「この(中略)正しい用法であるとする最近の考え方を」の部分から、田中氏のここでの「本来」は、正誤を中心にした用法だと判断できます。
これに新野氏が反論したものが、上記の「「日本語として正しい用法である」と述べたことは一度もない」という発言なんですが、
この時の田中氏と同じ読み間違いを、NIKKEIもしてしまったのだろう、というのが僕の予想です。

新野氏の言う迷信は、誰のどの発言?

新野氏の言う「迷信」とは、いったい誰のどの発言のことを指しているんでしょう?
上記のように主張するからには「“全然”は、もともと否定を伴う副詞である」という説がないと始まりません。

これについては後日追記とさせていただきます。

 

言葉
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ばどぷら

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